病室で悲しむ日本の子どもたちの未来のために。オランダからのバトンを繋いだヨルンさんの思いとは
取材・文 三上由香里
「成長盛りの子供がずっと同じ部屋、ずっと同じベッドで長い年月を過ごす…そうすると身体だけじゃなく、心まで落ち込んでしまいます。自分が11歳の頃に、ずっと同じ病室で過ごさなければならないとしたら…泣きたくなりましたね。これはあるべき姿じゃない、クリニクラウンはこの子たちのために日本にいなければならない存在だ、そう確信しました」
名古屋の病院で闘病生活を送っていた11歳のある男の子との出会いを話してくれたヨルン・ボクホベンさん。彼こそがオランダの「クリニクラウン」の活動を日本に紹介し、日本クリニクラウン協会の立ち上げに携わった立役者なのです。
どうしてオランダ出身のヨルンさんが、日本クリニクラウン協会の設立に携わることになったのか、そこにはどんな未来を思い描いていたのか、ヨルンさんのクリニクラウンへの思いをお聞きしました。
来日したクリニクラウンがおこした1つの奇跡
ヨルンさんが、留学のために来日したのは90年代後半。大学を卒業した後、オランダ王国総領事館で働くことになりました。研修中のヨルンさんは、総領事から「あなたは総領事館に入ったら、オランダのどんな文化を日本に紹介したいと思うか?」と尋ねられます。その時、ヨルンさんの脳裏にすぐさま浮かんだのが「クリニクラウン」でした
ヨルンさんがオランダの大学に通っていた頃に設立されたオランダクリニクラウン財団は、この10年の間に小児病棟がある全ての病院にクラウンを派遣、今ではオランダ国民のほとんどがクリニクラウンを認知するまでになっています。
「オランダでこれほどに必要性を認められたのだから、今後、ここ日本でもクリニクラウンは必ず求められる存在になるはず」とヨルンさんは考え、オランダからクリニクラウンを招いてワークショップを行うことを提案します。当時の総領事も、そんなヨルンさんの考えに賛同の意思を示してくれました。
当時の日本の病院をヨルンさんは、無機質で工場のようだと感じていました。
「オランダの病院、特に小児病棟には、花や面白い写真、アートがあります。たくさんのおもちゃもあって、病室は鮮やかな色使いで明るい雰囲気です。自分が日本で入院した時は、その違いに驚きましたね」
「クリニクラウンを紹介することはこれからの日本の医療現場、ひいては日本の子どもたちの将来のためにきっと役立つ」と考えたヨルンさん。まずはクラウンを探すことから動きはじめました。なぜならヨーロッパには歴史的にクラウン(=道化師)の文化がありますが、日本ではクラウンは稀有な存在。
数少ない日本のクラウンの中でも、クリニクラウンの活動に賛同してくれる人を探すことは容易ではありませんでした。そんな中、ヨルンさんが声をかけたクラウンの一人が、現在日本クリニクラウン協会の理事を務める、”トンちゃん”こと石井裕子さんでした。
当時は、お年寄りのためにケアリングクラウンとして活動していた石井さん。ヨルンさんから声をかけられたとき、「自分にクリニクラウンが勤まるのだろうか?」と、なかなか首を縦には振らなかったそうです。石井さんの人柄に惹かれていたヨルンさんは、「一緒にやりましょう」と説得し続け、ついにその熱意に負けて石井さんはワークショップへの参加を決意してくれたのでした。
ほかにも、ワークショップの開催を支援してくれる団体や会場探しなど……ヨルンさんは日々奔走。やっとの思いでオランダ財団から二人のメンバーを迎え、2004年1月、クリニクラウンの活動を紹介するワークショップの開催にこぎつけました。
新聞やラジオなど報道関係の取材も入り、日本で初めてとなったクリニクラウンのワークショップは満員御礼で大成功。オランダからもたらされた新しい取り組みへの注目度は高く、多くの人が参加しました。現在、日本クリニクラウン協会の事務局を担う、クリニクラウンの”くま”こと熊谷恵利子さんも、このワークショップの参加者のひとりでした。
日本へのクリニクラウン導入に向けて、最も大きな手ごたえを感じたのは、オランダのクリニクラウンと共に名古屋の病院へ訪問した際に起きた出来事でした。
「脳腫瘍の影響で半年以上喋れなかった女の子が、交流の後、クリニクラウンに向かって突然「ありがとう」って喋ったんです。みんなびっくりしました。親御さんが、病院のスタッフが「喋ってる!」ってみんな喜んで。クリニクラウンの力を皆さんが肌で感じてくれた瞬間でした」
ワークショップや病院訪問を通して、クリニクラウンのイメージが伝わったことにより支援者も増え、日本でクリニクラウンを育成・派遣する組織を立ち上げることが決まりました。オランダの製薬メーカーからの支援もとりつけ、核となるメンバーも揃い、いよいよ2005年10月、NPO団体として日本クリニクラウン協会が誕生しました。
設立後も難航したのはクリニクラウンの担い手探し。ワークショップには何人ものクリニクラウン希望者が参加していましたが、やはりパフォーマンスを中心に据えるクラウンと、こどもを中心にパフォーマンスを行うクリニクラウンとの方向性の違いに戸惑う人も多く、適した人がなかなか見つからない状況に悩まされたこともありました。
「クリニクラウンは、自分が中心じゃなくてこどもを中心にできる人がいい。自分が子どもの時はどうだったかとか、何が面白いか、こどもの想像の世界に入ることができることがクリニクラウンには必要だと思います」
設立して12年たった今、所属するクリニクラウンたちは、まさにこのヨルンさんの言葉を体現している人ばかり。みんな「こどもがこどもらしくいられる“こども時間”」を大切に活動しているのです。
ヨルンさんがクリニクラウンと共に描く、日本のこどもたちの未来
ヨルンさんの思いに多くの人たちが賛同し、設立された日本クリニクラウン協会。地道な活動が実を結び、たくさんの子どもたちと喜びを共にし、必要とされる組織として成長していきました。しかし、まだまだ積極的に活動をしていかなくては、とヨルンさんは言います。
「オランダでは10年ですべての国民がクリニクラウンを認知するようになりました。しかし、日本では12年が経っても認知度はまだまだです。オランダでは小学生のころから寄付をする、寄付を集める文化が根づいていて、元々慈善活動を行う団体への興味関心が高いという国民性もあります。また、オランダではテレビをつければ定期的にコマーシャルにクリニクラウンがでていたり、町中にクリニクラウンのことを知らせる看板があったり…と人の目に触れる機会が圧倒的に多いのです。日本でももっともっとそういった機会を増やして、多くの人へクリニクラウンの重要性を知らせていかないといけない」
さらにヨルンさんはこれからはこどもたちにこそ、クリニクラウンを知ってもらう活動を広げていきたいと考えています。
「クラスメイトに病気の子がいたとき、何かしようと思ってもなすすべがない。けれど、子ども 自身が友達のためを思ってクリニクラウンを支援してくれれば、きっとそれはプラスになる。
まだまだクリニクラウンの活動を楽しみにしている子どもたちがいるのだから…」
ヨルンさんのお話を聞いて、私も早く日本で「クリニクラウン」を知っている人がもっともっと増えてほしい、そしてもっとたくさんのこどもがクリニクラウンたちに出会って“こども時間”を過ごせるようになって欲しい、そう願わずにはいられませんでした。
同じ日本で今なお病室で病と闘うこどもたちを、自分のこどものように、自分の友達のように思い、感じた時、きっとクリニクラウンの存在がその子たちにとって必要な存在だと感じてもらえるはず。
この記事を通して、あなたがクリニクラウンに興味を持ってもらえたなら、友達や家族の間で「こんな活動があってね…」と話題にしてみてください。その会話1つから、クリニクラウンの活動を知る人が増え、病室のこどもたちの未来が変わるかもしれないのです。
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Jeroen Bokhoven (ヨルン・ボクホベン)
オランダ経済・気候政策省 企業誘致局 (NFIA) 駐日代表
1970 年、オランダ生まれ。ライデン大学文学部日本学科卒。大阪大学(日本文学)博士号取得。10年間グローバル企業の日本支社でセールスサポート責任者を経て、2015年よりNFIA大阪で勤務。以来、西日本の日本企業のオランダ進出や事業展開をサポート。2018年9月より現職。
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<ライタープロフィール>
三上 由香利
1984年生まれ。三重県出身。
名古屋で美容師として12年勤務したのち、新しい世界へチャレンジしようと関西へ。化粧品会社で広報として勤務する傍ら、言葉を紡ぐことに可能性を感じライターを目指す。2018年9月にフリーライターとなる。現在は地元三重県の情報WEBメディア「OTONAMIE」や、移住や町おこしなど地方をクローズアップしたメディアのライティングを主に活動中。 ライターとして言葉の質、またインタビューの質をあげたいとつながる編集教室に参加。