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病気や障害を抱えるこどもや家族への関心を高めるWEBメディア

クリニクラウンジャーナル

「無理!」からの挑戦。そして夢に向かって。 クリニクラウン・きゃしー誕生ものがたり

取材・文 吹田博史

“きゃしー”こと、川島由衣さんは、日本クリニクラウン協会の非常勤スタッフです。大阪芸術大学で演劇を学んだ後、大阪を中心に舞台俳優として小劇場で活動。現在は『劇団カッパ座』で子ども向けの人形劇を演じています。

川島さんがクリニクラウンに興味を持ったきっかけは、「劇団カッパ座」で東日本大震災の被災地に公演に行っていたとき。被災地のこどもたちが、人形劇を見て“こども”に戻る瞬間を目の当たりにし、30歳でクリニクラウンにチャレンジ。“今、最も多く病院訪問を行うクリニクラウン”として活躍しています。

このインタビューでは、川島さんがクリニクラウンになるまでのこと、そしてクリニクラウンとしてどんな風に成長しているのかをじっくり伺いました。

いつも夢を追いかけていた亡き父に導かれて

「女の子にはバトンを習わせたい」というお父さんの熱い思いがあり、3歳の頃、バトンに出会った川島さん。それから18歳まで15年間、バトントワリングに熱中する少女時代を過ごします。中学・高校時代は、日本屈指のバトントワリング部がある寮制の私立校で活躍。バトントワリングの全国大会に6年連続出場してグランプリも獲得したそうです。しかし……。

「実は、中学卒業と同時にバトンをやめようと決意し、高校の入寮式当日、こっそり家にバトンを置いてきたのです。ところが、家から持ってきた衣装ケースに、なぜかバトンが入っていて、びっくり。その夜、母から電話がかかってきました。『バトン、やり続けなさい』と」。

「目標に向かって行うことが重要なの。バトンを続けることが、絶対あなたのためになる。お父さんも最後までやりなさいと言っているはず」とのお母さんのアドバイスもあり、高校卒業までバトンを続けましたが、大学では芸術大学で総合芸術を学ぶことを選びます。

「小学校の時に『美女と野獣』の舞台を観てからずっと総合芸術に興味を持ってはいたのですが、バトンしかやってこなかった私は『芸術を選択してはダメ』と決めつけていました。高校3年生になったとき、周りの先生方と相談して国際ボランティアを目指すために外国語大学を第一希望としました」。
ところが、それからほどなくして、5歳のときに他界した亡きお父さんの友人に、思いがけず会うことになります。

「その方は、いろいろと私の知らない父の話を聞かせてくれて。後日、私に手紙が届きました。『あいつはいつも夢を追い続けていたよ。由衣さん、夢は追うものなんだよ。あきらめるものではないんだよ』としたためられていたのです」。

初めてクリニクラウンを知ったときは「私には無理!」と思った

突然、「舞台で演技をしたいので芸大を受験したい」と言いはじめた川島さんに、高校の先生方は驚愕。大反対を受けたのですが、音楽の先生や演劇部の先生が味方になって応援してくださり、無事に大阪芸術大学に合格しました。

ところが、念願かなった川島さんは大学で人生初の大きな挫折を味わいます。中高一貫の私立校の校風と、大学での人間関係のあまりのギャップに馴染めず、2年間通ったところで自主退学。

でも、演劇までもあきらめることはしませんでした。

「小劇団に入って演技を学ぶことにしました。しかし3年後に突然、劇団が解散。途方にくれていたとき、先輩が日本クリニクラウン協会のワークショップに誘ってくれて。これがクリニクラウンとの最初の出会いになりました」。

初めて知る、クリニクラウンに対して川島さんはどんな感想を持ったのでしょうか。

「『私には無理!』というのが率直な感想でした。病気の子どもを相手すること、医療の様々な知識を学ぶことなど。『すごいことをしている人がいるんだな。私の活動とフィールドが違う』と思いました」。

一度はすれ違った川島さんとクリニクラウンの道は、冒頭でも触れた東日本大震災の被災地公演の場で再び交差します。

「2011年3月から舞台『オズの魔法使い』の全国公演で、ドロシー役を主演する機会にめぐり合ったのです。ところが公演目前だった2011年3月11日、東日本大震災が起きてしまいました。もちろん、『オズの魔法使い』は東北地方での公演は中止。『もう東北のこどもたちにドロシーを見てもらうことは無理なのかな』と思っていました」。

しかし、岩手県の「水沢市民会館」は無事であることがわかり、避難所の子どもたちを招いて『オズの魔法使い』を上演することに。川島さんはドロシーとして被災地に向かいました。

「避難所にいるこどもは常に抑圧されていて、自由に声を出せないという状況でした。でも、ステージを見ているときは、『後ろ、危ないよー!』『がんばってー』と大きな声で応援してくれました。後でクリニクラウンとして知ることになったのですが、「こども時間を取り戻す」とはどういうことかをここで学んだのです。エンターテイメントの可能性に気づいたのもこのときでした」。

「エンターテインメントを通じて、何かこどものためにできることはないか」と考えていた川島さんは、「クラウン」でインターネットを検索。

日本クリニクラウン協会の講座案内を見つけて「これだ!」と感じ、すぐに応募しました。まさに満を持しての再会でした。

夢は「クリニクラウンが安心して活動できる環境をつくること」

川島さんは、病院訪問を行いながら、日本クリニクラウン協会の非常勤スタッフとして、協会の運営にも携わっています。2015年からは、東日本大震災の被災地支援活動「東北クリニクラウン事業」も担当。宮城県立こども病院、東北大学病院、岩手県立大船渡病院での活動を続けています。

「Drやスタッフの方々は、『震災の風化が心配』とおっしゃっていますが、クリニクラウンの訪問が『忘れない』というメッセージになればと思います。被災地は、少子高齢化や過疎が進み課題先進地域と言われていますが、クリニクラウンの活動はこどもの数が多くても少なくても同じで、届けるのは『こども時間』です」。

一方、病院で様々な制限を受けるなかで地震に遭遇したこどもたちには、届けるのは同じ「こども時間」でも、届け方はいつも同じというわけではないようです。

「こどもが少なくなっている地域では、私たちはもっと『こどもになる』かもしれません。クリニクラウンは『非日常』を届ける存在でもありますが、東北クリニクラウン事業では、クラウンが来たことで子どもが『日常』に戻ったと言われました。こどもの笑顔、拍手、歓声を取り戻したこと、忘れてしまったことを思い出すことができたとも」。

最後に、川島さんがクリニクラウンになって10年目にあたる2025年には、どんなクリニクラウンになっていたいかを聞きました。

「まず2021年までに、養成プログラムを作ることが夢です。日本クリニクラウン協会のトレーナーはトンちゃん一人しかいないという課題があります。ですから、2025年にはトレーナーとして活動していて、クリニクラウンという職域を確立していたい。安心して活動できる環境を整備したいと思っています」。

インタビューが進むにつれて、どんどん素敵なクリニクラウンになっていく川島さん。クリニクラウンになる動機やタイミングは人それぞれですが、出会いを引き寄せる感覚が大切ということを教えてもらいました。これからも夢に向かって歩んでいく川島さんを応援したいですね。

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川島由衣
1986年生まれ、大阪府出身。
3歳から始めたバトントワリングで、表現する楽しさを知る。大阪芸術大学舞台芸術学科ミュージカルコースで、舞台の基礎を学び、関西を中心に舞台役者として活動。2009年劇団カッパ座の本公演のメンバーとして全国ツアーに参加。2014年クリニクラウンの選考会に挑戦。1年間の養成課程を経て、2015年にクリニクラウンの認定を受け全国各地の小児病棟を訪問。2016年からは事務局スタッフとしても携わり、病院訪問だけでなく、東北支援事業や、クリニクラウン養成事業を担当している。
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<ライタープロフィール>
吹田 博史
東京生まれ、西宮育ち。1988年大学卒業後、武田薬品工業株式会社に入社。営業、営業推進、労働組合、社長室を経験後、現在、コーポレート・コミュニケーションズ&パブリックアフェアーズCSRにおいて、日本における企業市民活動の企画・推進に取り組んでいる。